グレート・ギャツビー

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

「哀しくも美しい、ひと夏の物語」という帯の文句がそのままあてはまる。主人公たちの持つ喪失感・寂寥感が全体を貫く物語。アメリカ文学における古典を、村上春樹が新訳。

恋愛における誠実さと狂気、田舎と都市、成長の先にある停滞、享楽と苦悩、、、といった物事の二面性を、若干28歳のスコット・フィッツジェラルドが素晴らしい感性で描く。そして、『風の歌を聴け』で文壇デビューした村上春樹も当時の年齢は29歳。

(以下、村上春樹風に)僕も今年29歳になる。これらのものごとは、どこかひとつのところで、結びついている気もするが、残念ながら僕は村上春樹でも、スコット・フィッツジェラルドでもない。それはそれ、これはこれ、なのである。やれやれ、なんてこった。

・・・冗談はさておき、「ノルウェイの森」のワタナベ君は本書をこう語る

僕は気が向くと書棚から『グレート・ギャツビー』をとりだし、出鱈目にページを開き、その部分をひとしきり読むことを習慣にしていたが、ただの一度も失望させられることはなかった。一ページとしてつまらないページはなかった。なんて素晴しいんだろうと僕は思った。

村上春樹自身が、訳者あとがきで、「もし『グレート・ギャツビー』という作品に巡り会わなかったら、僕はたぶん今とは違う小説を書いていたのではあるまいか」と語るとおり、本書の語り部・ニックが語る物語は、まるで村上春樹小説の「ワタナベ君」や、「僕」が語る物語のよう。

僕がまだ年若く、心に傷を負いやすかったころ、父親がひとつ忠告を与えてくれた。その言葉について僕は、ことあるごとに考えをめぐらせてきた。
「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」

人は誰しも自分のことを、何かひとつくらいは美徳を備えた存在であると考えるものだ。そして僕の場合はこうだ---世間には正直な人間はほとんど見当たらないが、僕はその数少ないうちの一人だ。

三十歳---それが約束するのはこれからの孤独な十年間だ。交際する独身の友人のリストは短いものになっていくだろう。熱情を詰めた書類鞄は次第に薄くなり、髪だって乏しくなっていくだろう。

ニックの持つ、"中庸であろうとする美徳"が、ギャツビー、デイジー、トム、ジョーダンといったキャラクターの魅力をいっそう際立たせる。翻訳にあたり、村上春樹が「僕は小説家であるメリットを可能な限り活用してみよう」とした、との言葉にも納得。

100年以上前の夏目漱石が語ることに、未だ心を揺り動かされるように、本書は「普遍性を持った現代の物語」なのだと思う。残念ながら原文を読めないが、その物語の雰囲気を我々に伝えることができる村上春樹の技量に脱帽。