ティファニーで朝食を トルーマン・カポーティ, 村上春樹訳

ティファニーで朝食を

ティファニーで朝食を

10年ぐらい前、二十歳の頃に沢木耕太郎的な世界に憧れ「ニュー・ジャーナリズム」がどーたらこーたらとかいう付け焼き刃的知識で『冷血』を読んで敢えなく挫折した経験があります。いわゆる世の中の背伸びした二十歳青年の一般的読書挫折経験。

そんなわけで、僕の中ではずっと「カポーティ=冷血=重い」のイメージ。もちろん『ティファニーで朝食を』の著者であることは知ってましたし、むしろ『冷血』がカーポティの中で唯一無二の異色作品であることも理解してはいましたが、なんとなく読む機会がなく、気付くと10年。おそらく村上春樹新訳でなければ、『ティファニーで朝食を』を読む機会もなかったでしょう。世の中の新訳ブームに感謝感謝、といったところ。

あとがきで村上春樹自身が、「主人公であるホリー・ゴライトリーに、オードリー・ヘップバーンの映画のイメージがついてまわるのが(映画そのものには別の魅力があるのは認めつつ)残念」と書いていましたが、僕自身は幸か不幸か映画を観たことがなかったので、すんなり入り込んで読み切れました。

物語の内容としては言わずもがな、なのかもしれませんが、イノセンスさ、自由奔放さが魅力の女性主人公(=ホリー・ゴライトリー)と、どうにも芯の弱い「僕」の関係性の物語。「僕」の不安定さがゆえ、ホリーの魅力がフルスロットル全開で、ホリー自身の会話文を主体にキャラを際立たせていく感じは、すごく面白いし、訳者の力量が故なのか、と感じる。

キャッチャー・イン・ザ・ライ』にしろ、『グレート・ギャツビー』にしろ、「絶対に手に入らないピュアなもの」とか「イノセンス」が近年の村上春樹の翻訳作品テーマなのでしょうか。「切なさ」とか「哀しさ」とか「一瞬のきらめき」に一貫した何かを感じ取るわけです。